11月23日、本学卒業生のサーロー節子さんをお迎えして、特別講演会 「キリスト教主義女子教育と平和〜私が受け取ったもの、あなたに託したいもの〜」 を開催いたしました。広島県内外より集まった約1,000人もの聴衆を前にサーローさんは力強いメッセージを発信されました。
湊晶子学長は、挨拶の中で、キリストの山上の説教の一節、「平和を実現するものは幸いである」を引用し、「平和はどこかからやってくるものではありません。私達一人ひとりの責任において、民族を越え、国を越え、つくり出していかなければなりません」と訴えました。
サーロー節子さんの言葉を広島女学院に集う私達が繋いでいき、これから、日本として、また一人ひとりとして、平和を実現するために何ができるのかを考え、思いだけでなく行動していく使命を新たに与えられました。
講演要旨
美しい広島の街に絶句しました。あまりに信じがたい、神秘的な景色でした。このパノラマ、被爆後のがれきの山のイメージが交互に重なりあって、異様な思いがしました。人間の持つ弾力性の証と広島の再生を目にしたのです。しかし、この目にすることのできる広島の物理的再生とともに、目で見ることのできない再生、いわゆる広島の心は、過去73年間どのように成長してきているのでしょうか、再び起きてはいけないことを防ぐためにどのような市民の歩みがあるでしょうか、それらを私は広島滞在中にできるだけ多く学びたいと思っております。
私が関わる団体、核兵器廃絶国際キャンペーンICANが昨年12月ノーベル平和賞を受賞しました。70年余り戦い続け、昨年7月7日についに国連で核兵器禁止条約が採択されたのでした。ノーベル平和賞受賞はそれから3か月後のことでした。この平和賞は広島と長崎の被爆者をはじめ、核兵器廃絶に努力するすべての人々のための賞です。ノルウェー・オスロまで、母校広島女学院大学の学生・先生たちが、私を励ますために折り鶴を届けてくださいました。寒空が広がる国会議事堂前の緑の木々に飾られました。ふるさとっていいな、後輩たちの計らいに胸が熱くなりました。
大学卒業後64年が過ぎて今振り返りますと、広島女学院での10年間は私の人格形成や生涯の成長につながる基本的な指標を与えられたと思います。毎日の礼拝を通して、考えさせられる機会を与えられました。創造主たる神と人間との関係、また隣人への責任感、人生観なり世界観の確立に導かれ、支えられたと思います。このことは私の人生の基本的な学びとなり、原動力となったと思います。社会福祉を通しての奉仕も、核廃絶による人間社会の安全と社会正義の推進も、私の原点は広島女学院における10年間にあったと思います。
1944年(昭和19年)、英語と音楽で評判が良かった広島女学院高等女学校に入学しました。毎朝のチャペルは美しい讃美歌につつまれて、聖句や、先生や上級生による信仰の証に感動をうけました。英会話のクラスでは顔の筋肉を総動員して発音の練習を楽しんだものです。
2年生になると、学徒動員作業がほとんど毎日のようになりました。1945年7月には、戦地の前線から届く暗号メッセージの解読作業に動員されました。そして1945年8月6日、爆心地から1.8キロ、現在の東区二葉の里にあった第二総軍司令部で、同級生およそ30人と一緒に、さあ作業、という時でした。すさまじい閃光に包まれ、体ごとに吹き飛ばされました。意識を失った後、気が付くと辺りは真っ暗でした。梁に阻まれ動けません。辺りからは「お母さん助けて」、「神様助けてください」という同級生の悲痛な声が聞こえてきました。私はここで死ぬのだなと思いました。心静かに死に直面していたのでした。そのうち、誰かに左肩をぐいっとつかまれました。軍人さんが「あきらめるな。左のほうに光が見えるだろう。そちらに向かって急いで這って出るんだ」と励ますように言われました。言われたとおり、懸命に外に這い出しました。すでに背後で猛火が上がっていました。ほとんどの級友はまだ建物の下、生きたままで焼かれました。私を助けてくれたあの軍人の消息もわかりません。
二葉山で夜を明かした翌日、両親との再会したのもつかの間、姉の綾子と4歳のおい、英治の死に直面しました。柳橋のたもとで被爆した二人は、水を求めながら、もがきくるしみながら亡くなりました。二人の遺体には兵隊さんが石油をまき、火をつけました。「腹はまだ焼けないぞ」、「脳みそは生焼けだぞ」と声をかけながら、竹ざおで転がすのを呆然と見届けていました。その記憶が長く私を苦しめました。心がすっかり麻痺してしまい、私は涙することもなく地獄を垣間見たのでした。
女学院のクラスメイト達は雑魚場町(現国泰寺町)で作業中にほぼ全滅しました。死の淵で、米原先生と円陣を組み、讃美歌『主よみもとに近づかん』を歌いながら次々と息絶えたと知りました。女学院では351人の命が失われ、その後も生徒は病や死の不安と隣り合わせで生きてきたのです。一発の原爆は人間の尊厳も、にぎやかな家庭の営みも、一瞬でずたずたにしてしまいました。それが私にとって怒りと行動の原点となりました。
数年前に女学院の同窓会にお願いしまして、原爆でお亡くなりになった先生・生徒たちお一人おひとりの名前を書いてもらって、世界各地をまわる時は必ずこれを持って旅をしています。
核の話になると非常に抽象的なことだとか、あるいは天文学的な数字、たとえば「1945年末までには14万人の広島の人が亡くなった」では、14万という数がいったいどういうことか瞬間的に理解できないのです。一人の大切な家族のメンバー、父親なり母親なりが亡くなると、その痛みがわかりますけど。一人ひとりの死がどういう意味があるのか、広島で起きたことを理解してもらうために、これを作りました。
名前の漢字4つでひとりの人間の命を象徴するものだと説明します。ここに351の名前があがっている、これは私の学校だけで起こったことだと。こういう学校が数多くあって、雑魚場のあの中心地では、女学校1年生・2年生の数千人の学生があそこにいて、命を失いました。私一人ではなく、女学院の皆様が私と一緒に広島の声を伝えているんだということをご了解いただきたかった。
戦争が終わり、新しい空気を深呼吸するようでした。新制高校の2年生となった1948年(昭和23年)11月、私の発案で『広島女学院高校新聞』を創刊しました。私が初代の編集長でした。新憲法の「言論の自由」の実践です。熱中しました。今の三越広島店の場所にあった、中国新聞社に通いながら、記者から新聞をどうやってつくるのか一から学びました。論説も書きましたし、映画の批評も書いたし、アメリカ人宣教師の自転車をお借りして、広告営業もしました。充実した高校生活でした。
生き延びた者の命の意味を探し求める日々が続きました。原爆孤児や原爆乙女の支援に投じられた流川教会の谷本清牧師の姿に接して、先生がいつもおっしゃっていた「愛と行動の人」になろうと思いました。流川教会で16歳の時に洗礼をうけました。YWCAの活動を通して、広島大学の森瀧市郎先生から学んだのは、人類をおびやかす核兵器を告発し、絶対平和を実現する思想でした。母校広島女学院大学広瀬ハマコ学長からは、アメリカでは社会福祉学が確立した学問であることを教わり、アメリカの大学への留学を促されました。1954年夏にアメリカに渡りました。
1954年の春、太平洋のマーシャル諸島で、アメリカが水爆実験を行いました。第五福竜丸が死の灰を浴びて、船員が被爆しました。半年後、アメリカの留学先の大学で新聞記者から取材を受け、「広島や長崎の被爆者と同じような障害で苦しんでいる。核実験はただちに停止されるべきだ」と答えました。地元の新聞に翌日掲載され、「日本へ帰れ」、「真珠湾を忘れるな」、「殺すぞ」と脅迫する手紙が届くようになりました。敵国の人間として、袋叩きにされる恐怖と孤独に苦しみました。しかし、愛する人たちの命を二度と無駄にしてはならない、私は黙っていない、戦い続ける、広島を語り続ける、と決心しました。北アメリカで被爆者として生きる人生の新たな第一歩でした。
1955年カナダ人教師と結婚し、カナダのトロント大学大学院で社会福祉を学びました。卒業後、二児を育てながら、教育委員会などで私のキャリアが始まりました。この教育の場で、私は広島・長崎を語り始めたのです。しかし、カナダの人々の大半も原爆投下を正当化していました。私の広島は興味本位のテーマとして扱われ、荒野の孤独な声のようだと、嘆いたこともたびたびありました。ようやく生まれた核議論も、多くの移民や難民が自国から持ち込む経験で、反核論を複雑にしました。歴史的にも人道的にも説得力のある被爆証言が必要でした。高校や大学の集会では毎回のように東洋系の若者からの反発があります。戦時中、日本軍に虐待された家族のことを涙ながらに訴えられたことも多くあります。彼らの痛みに耳を傾け、私自身日本人として持っている罪悪感を伝え、詫び、広島や核問題に閉ざされたアジアの若者たちの心を開いて、和解へと導く努力をしています。被害者であったと同時に加害者であったことを認めなければ、聞く耳をもってくれず、心を開きもしません。アジアの戦後は終わっていません。
過去数十年間の北米における反核運動の発展には、目を見張る思いがします。強力な軍事産業複合体に支配されているアメリカの社会で、粘り強く抵抗を続ける市民運動の同志たちの苦闘は計り知れないものがあります。核軍縮の停滞を打ち壊すために、いろいろな動きがあります。特に私にとって嬉しかったことは、人道イニシアチブと呼ばれる新しい考え方が生まれたのです。これまでは核兵器はほとんど軍事的、政治的な見地からだけで論じられていましたが、人間と環境を人道的な問題として語るべきだという運動が生まれ、最悪な非人道兵器を国際法で禁止しようという機運は、予想以上の速さで世界的な運動となりました。
ICAN(核兵器廃絶国際キャンペーン)は、532の世界の市民団体からなる連合体です。103か国で活動を続けています。長年の反核運動の中で、こんなに知性とエネルギーに満ち、献身的な行動力を持つ若い世代が中心となった運動を私は見たことがありません。2017年3月、遂に核兵器禁止条約交渉会議が国連本部で始まりました。議場で発言する機会を得て、日夜、国際法や国際政治を論じている外交官たちに忘れてならない一つの大切なことを指摘しました。「73年前に広島・長崎で虐殺された幾十万人の霊も、ここで会場の成り行きを見ています。彼らの死が無駄でなかったと思えるような交渉をしてください」と各国代表に強く要請しました。仏教的な感覚を理解してもらえるかなという不安がありましたが、外交官たちが「心動かされた、ありがとう」と駆け寄ってきたときは、うれし涙がこぼれました。この条約は現在と将来の世代の存在に貢献するだけではありません。広島・長崎で虐殺された幾十万の犠牲者たちを含め、人類全体に貢献するための条約なのです。
昨年、2017年7月7日、ニューヨークの国連本部において、122か国が賛成多数で核兵器禁止条約が成立しました。ICANをはじめとする世界の市民や被爆者、核兵器廃絶に熱心な非核保有国が手を携えて、歴史をつくった瞬間でした。「核兵器の終わりの始まり」。この条約採決に沸く議場で、この言葉は私が万感の思いで口にしたものです。その通り、本当のスタート地点に立ったのです。50か国の署名と批准を獲得して、できるだけ早くこの禁止条約を発効させることが私たちの第一の課題です。しかし、日本政府はこの条約の批准を拒否しています。73年間、被爆者は核兵器の非人道性を語り続けてきたにもかかわらず、政府は、被爆者や国民の声を無視し続け、被爆者と国民を裏切っているのです。核兵器大国アメリカに追従し、無数の人間を大量虐殺する用意があるという脅しの戦略に頼り切っているのです。日本がです。誤った幻想です。
日本市民への課題は明瞭ではありませんか。皆さん、東京に向けて広島の市民の怒りと行動を発信してください。私は命ある限り、人間が人間らしく生きることができる社会を、平和で安全で公正な世界を作り出すために、核保有国と核依存国に行動を迫り続ける覚悟です。皆さん、この目標に向かってご一緒に行動をとりませんか。ご一緒に前に進みませんか。
核兵器禁止条約が採択された3か月後に、ノーベル委員会は2017年のノーベル平和賞をICANに授賞することを発表しました。ICANのノーベル平和賞は核兵器廃絶への最高の励ましです。同時に非人道兵器を抑止力として正当化し、禁止条約への参加を拒否する国々への痛烈な批判でもあります。日本はそのひとつです。ICAN国際委員会の提案で、私がICANを代表して受賞のスピーチをすることを私は謹んでお受けしました。厳粛で華麗なノーベル平和授賞式、コンサート、晩餐会などになんらかの形で広島を持っていきたいと思いましたので、母からもらった留袖をドレスに仕立てて、授賞式に着用しました。演説中の私の思いは、他の国際会議や国連でのスピーチと同じく、やはり広島・長崎で亡くなった方々の声なき声でした。世界中の人たちがあの人たちの声に耳を傾けているという深い満足感を覚えました。
私は13歳の少女であった時に被爆しました。くすぶるがれきを押しのけながら光に向かって動き続けました。そして生き残りました。今、私たちの光は核兵器禁止条約です。皆様に、広島の廃墟の中で私が聞いた言葉を繰り返したいと思います。
「あきらめるな。動き続けろ。押し続けろ。光が見えるだろう。そこへ向かって這っていけ」
核兵器禁止条約の第一歩はまず出来上がりました。でも核廃絶までには長い行程があります。遠い遠い行程があります。希望と勇気と粘り強さを持って、その目的に向かって動き続けましょう。粘り続けましょう。頑張りましょう。
(拍手)
湊学長は、アインシュタインが1922年に40日間日本に滞在された時のことば、「世界は闘争に疲れ果てる時が来る。その時、世界人類は平和を求め、世界の盟主を必要とする。我々は神に感謝する。天が我々人類に日本という国を与えたもうたことを」という言葉を引用して、次のように会をしめくくりました。
「日本は核廃絶のために、唯一の被爆国として核保有国と非保有国の間に立って、世界平和のために役割を果たす時が来ていることを、サーローさんの力強い講演から再確認させていただきました。粘り強く、頑張りましょう」