あなたは「英語科教育入門」という科目名からどんな授業内容を想像しますか。
おそらく英語教育の目的、英語の教科書の中身、英語の指導方法、英語を習得するプロセス、 世界中で英語を使う人の数などではないでしょうか。確かにこの授業ではそのような内容も扱いますが、英語教育に係るコンテンツだけがこの授業の提供するすべてではありません。
英語教育の目的は、単に英語のコミュニケーション能力を育成することだけでなく、英語の背景にある社会や文化を理解することも含んでいます。つまり、外国語(第二言語)に触れることを通して、物の見方や考え方になにがしかの変化が生じ、学習者が人間的に成長することも期待しているのです。
私はどの授業においても、次のような私見を説示します。
「私たち個々の人間は、地球という惑星の表面に貼り付いた76億人の中の一人にすぎず、互いが目に見えない糸で結ばれている。だから、たとえどんなに小さくても、自分に与えらえた運命の『歯車』をひたすら廻し続けることによって、人類の発展・平和・共存に貢献することができるのである。その点においては、人種も言語も宗教も性別も出自も職業も、なんら優劣の縦関係にはない。」
「それを追求し体現するために学び続けるのだ」とも。
それゆえ英語教育は、人類の相互理解と共存を達成するための、特定のアングル、つまり教科内容学的な見地からのチャレンジであると解釈できるのです。
言い換えれば、英語という言語やそれを取り巻く文化を学ぶという営みは、人生を豊かに生きるうえで役立つ情報源や観点へのアクセス、つまり、異質で多様なものへの侵入経路・接触方法に過ぎないと考えています。したがって、この授業では、(もしかすると「脱線」とか「寄り道」などと誤解されるかもしれませんが)、英語教育と直接的に関係しないテーマや問題も取り上げます。
たとえば、初回の授業で『シンドラーのリスト』のテーマ曲を聴いて感想をメモしたり、学期の後半(11月から12月)にかけて、『コーラス』というフランス映画(原題: Les Choristres. 2005年)を視聴したりします。英語科教育入門の授業で「なぜフランス語?」と訝しく感じるかもしれませんね。
この映画を観るにあたって、私は学生に次の課題を出します。
「他人を思いやること、他人を愛すること、そして、他人のために貢献すること、それらは一体どういうことか。」
この質問に対して、映画の視聴の前後で自分の考えを文字化するというタスクです。外国語の学習というよりも思考問題です。自分の考えを、段落のような文章体で表現してもいいし、頭に浮かんだ事柄を箇条書きしても構いません。とにかく頭に浮かんだ事柄を必ず文字に起こすのです。
そのような自分自身への内省的な問い掛けをとおして、「自己と他者との関係性」「生きがい」「やりがい」「今の自分」「将来の夢」などに思いを馳せて欲しいのです。 果たして、視聴の前後で個々の学生の考え方に何らかの差異が生じるか否か。少々大袈裟ですが、これはある種の心理学実験であるとも言えるのです。
『コーラス』
時代設定は第二次世界終結後の1949年。映画の舞台は、フランスの片田舎にある、「池の底」と呼ばれる寄宿制の少年養育施設です。そこに住まうのは素行の悪い、いわゆる問題児ばかり。教師に反抗を繰り返す生徒、心のどこかに傷を負った生徒、両親を亡くし身寄りのない生徒、授業に全くついていけない生徒、家庭の事情でやむなく預けられた生徒などなど。そこへ舎監として着任するのが、失業中の音楽教師マチュー。作曲家になることを夢見ていたものの、辿り着いた先は誰も勤めたくないような厄介な男子校。しかし、マチューは合唱指導に光明を見出すのです。合唱団を結成して生徒に歌う喜びを覚えさせることにより、子供本来の純真無垢で素直な姿を取り戻して欲しいと願うのです。マチューや少年たちの運命やいかに。
ストーリーの結末に触れるのは野暮なので、映画解説はこの辺りにしておきます。
では、この映画を鑑賞した学生たちの頭と心の中にどんな思いが浮かぶのでしょうか。たとえフランス語が全く理解できなくても、そして、登場人物たちの姿に自分を投影することができなくても、人と人の触れ合いや人と人の結びつきについて考えさせられるに違いありません。それをきっかけにして、自己と他者との関係性や生きることの意義などに目を向けて欲しいのです。
そのようなマクロな(巨視的な)思惟は、実用と教養の二つに支えられた英語教育というミクロな(微視的な)営みを、客観的かつ包括的に把握するのに役立つに違いないと考えます。言い換えれば、人間の営みを多様な視座から見つめて欲しいのです。英語教育はそのための一つの「窓口」であると思います。
(※2019年撮影)