人文学部 日本文化学科 ニュース

「はだしのゲン」を追いかけて-本川小学校に学ぶ-

8月23日(木)、国際教養学会主催の平和学習会を開催、日本文化学科、国際教養学科、生活デザイン学科の1~4年生、7名が、本川小学校の平和資料館を訪れました。

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本川小学校は、爆心地から最も近い小学校で、約400名の子どもたちと10名の教職員の尊いいのちが一瞬にして奪われています。平和資料館は、原爆の被害を受けた状態そのままに残されており、被爆の悲惨さについて学び・考えられるところです。また、本川小学校は「はだしのゲン」が通っていた小学校のモデルとされています。 私たちは、小学校のみなさんのあたたかい手書きの言葉で迎えていただき、ボランティアガイドさんの丁寧で思いのこもったお話をうかがうことができました。

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参加者の感想を拾いながら、私たちがこの場所に立って、考えたこと、思いを巡らせたことをお伝えしたいと思います。

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私は、呉市で生まれ、小学校まで呉市の小学校に通っていましたが、全学年の教室に「はだしのゲン」が置いてあったのを覚えています。幼いながらも、この本を通して原爆の恐ろしさや平和の大切さを学びました。本川小学校のことも知っていましたが、実際に足を運んだのは今回が初めだったので、とても緊張しました。今回の見学を通して、普通の生活を送れることがどんなに幸せなことであるかを改めて感じました。被爆当時の学校は、教室らしさが跡形もなく、勉強するための机や椅子さえもなかったという事実がとても悲しかったです。

一瞬にして尊い多くのいのちを奪うとともに、生き残った人々を苛酷な状況に追い込んだ原子爆弾。ここで何があったのかを知ることの大切さを参加者全員が感じました。

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原爆の熱線がどれほどの熱さだったのか、熱線を浴びた瓦を実際に見せてもらった。たった3秒でこれほどの黒さになる熱さだったと知ることができた。これを再現するためにガスバーナーで焼いたところ、1500℃ではこのようにならず、1800℃以上でようやくこのようになると知った。当時の水が入ったままの、800℃から1000℃で変形したガラス瓶も見せていただいた。被爆時は、それ以上に火災も起きていたため想像もつかないほどの熱さだったことがわかる。

まさに想像を絶する高熱です。焼けただれた瓦やガラス瓶を目にすると、核兵器の非人道性を感じないではいられません。

平和資料館は、被爆した建物というだけでなく、被爆された方々のお墓であることを知った。原爆の熱線は、コンクリートの校舎の中の木材が焼けるほど強かったことも、実際に見て理解できた。

私たちが立っているこの場所で、亡くなった方々がそのまま焼かれ、埋葬されたことを知り、また、校庭の臭いを消すために大量の石灰がまかれ、それが地層のようになっているというお話をうかがって、言葉ではとても言い表せない気持ちになりました。

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本川小学校は、当時の公立小学校の中でも、最新の技術を駆使して立てられており、水洗トイレが設置されるなど設備が整い、また、関東大震災をふまえて、災害が起きても崩壊しないようにとコンクリートを用いて建てられた、当時からすれば先駆的な建物だったそうです。しかし、原爆は、想像以上の破壊力で広島の街を変えてしまいました。本川小学校も窓ガラスは窓枠を残して吹き飛ばされ、ところどころ亀裂の入ったコンクリートのみになった写真がありました。ケガ人が大勢運びこまれ、グラウンドは火葬場とされていたそうです。そのグラウンドの土に混じった人骨の展示を見ました。子どもたちが遊んだりしていた場所にあったと思うと恐ろしいと感じました。けれど、なくなった人を一人一人埋葬することもできないくらい広島はたいへんな状態にあったことがよく分かりました。 また、原爆によって孤児となってしまった子どもたちが生き延びるために盗みをしたというお話は、本当に悲しいと感じました。自分たちの家族の生活もままならない中で、それ以外の子どもの面倒を見ることはできない困窮した生活であったというお話をお聞きし、「原爆はそのあとが本当の地獄の始まり」という意味が分かりました。

原爆が投下された後の広島の街の中で、人々がどのような状況に置かれていたのか。亡くなった多くの人々が埋葬されたその土の上の子どもたち、街にあふれていた原爆孤児。子どもの目線に立つと、戦争の悲惨さと愚かさが、よりいっそう見えてくるように感じます。

私の祖母は被爆者であり、戦後の厳しさを、幼い頃から祖母に聴かされていた。祖母は、両親がおらず、小学校も卒業せずに働き始めたと言っていた。戦後、月日が経ってから生まれた私たちにとって小学校を卒業することは当たり前のことだが、戦時中や戦争直後の人々にとっては当たり前のことではないと改めて感じさせられた。戦争は、命や街をなくしてしまうのはもちろんだが、生活そのものもなくしてしまうものだと思う。戦争や原子爆弾がなかったら、その人には別の人生があっただろうと考えると、戦争は悲しいものだと感じる。平和公園の石碑に刻まれている「安らかに眠って下さい 過ちは繰り返しませぬから」という言葉に恥じないよう、さらに平和や戦争のことを学び、戦争のない国をつくっていきたいと思う。

本川小学校での学習の後、私たちは爆心地に立ちました。

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「はだしのゲン」の学校で見たこと、考えたことを振り返りながら、平和公園の慰霊碑を巡り、最後に被爆二世のアオギリの前に立ってアオギリの歌を聴いた後、解散しました。

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学徒動員の碑を改めてじっくり見ることができ、たくさんの学生が学業でなく工場での労働を強制され犠牲になったこと、広島だけでなく他県の学生も犠牲になったことを感じた。 アオギリの歌は幼稚園の頃から知っていて、大学生になって改めて聴くと心に響くものがあった。「これから生まれてゆく、広島を大切に」「広島のねがいはただひとつ、せかい中のみんなの明るい笑顔」

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あの日と同じ8月の太陽の光を浴びたアオギリの葉が、夏の風に揺れていました。

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